“昔の自分”をひたすら消し続けてきた人生でした。

もう見返さないから、と写真を消して、もう連絡を取らないから、と

友人との連絡先を消して、もう使わないから、と使わなくなったものを捨てます。

身体の細胞はこうして、知らぬ間にそっくり違うものに入れ替わるんでしょう。

 

なぜ”昔の自分”を無かったことにしたくなるのでしょう。

よく分からないけれど、

相手に知らない自分が在ることが、なんだか恥ずかしいのです。

まるで、人見知りしてしまうみたいに。

気まずいなんて言葉じゃ片付きません。

時に、この人の中の”私”を更新したくない、と思い

SNSの繋がりを断つこともあります。

当の本人も不思議に思うくらいですから、

他人から見れば尚のこと不思議でしょう。

 

ここ最近じゃ、変わりました。

“今”の私を少しも取り零したくない、と必死です。

過去になってしまう今を、全部背負って未来を歩きたいのです。

最近興味のあること、よく食べるもの、悩んでいること、

無意識に考えてしまっていること、よく行くお店、聞く音楽…

その全てを記録してすぐ取り出せるようにしたい、

ひとつも忘れたくありません。なぜでしょう。

 

“過去と今の関係”は、

私にとってはまだ分からないことが多いのですが、

一年に一度くらい、過去と今の関係について、

何かハッとすることがあります。

それを繰り返して、今に至ります。

 

特に、1~2年前に「過去の自分と今の自分は地続きなんだ」

ということに気付き、思わず泣きました。

改めて文字にすると、自分でもなんだそりゃという感じですが、

私は自己嫌悪と自尊心を保つこと以外で、

過去の自分と今の自分の繋がりを意識して来なかったのです。

消した過去を語るのは、まるで”そういう設定”を語っているような感じです。

ですから、「昔の自分がこの経験をしたから、

今の自分がそれに生かされ、命救われている」という事実に気付いた時、

私はそれはもうビックリどころではなかったのです。

自分の”昔”は今の自分を辱めるための存在じゃないと気付いた時、

人は変わるでしょう。

 

私は今27歳。27年間も生きました、大層長く生きました。

半年くらい前まで、あんなに毎日毎時間毎分毎秒、

自己嫌悪と自己否定に勤しんでいたのに、

今ではそれも明らかに減りました。

生き急いで毎日何か分からないけれど、

存在しないものを必死に息を切らして探し回る感覚も減りました。

良い事だと思います。

それなのに、私はこの変化を恐ろしく不安に思うことがあります。

 

私は物心ついてから、”変化することは良いこと”、

そして”変化していないことは成長していないことと同義”だと、

心の底から思っていました。

今も感覚的にそう思ってはいます。

私は、変わったと思います。しかも良いと思われる方向に。

これは人間として良いことでしょう。

なのに、何故こんなに”昔の自分”に会えないことが寂しいんでしょうか。

今まで、変わろう変わろうと必死に必死に必死になって私は変わりました。

でも、変化(成長)を辞めよう、と決めた私は結果的に変わりました。

人は変わろうとしなくても変わるのです。

 

私はその自分の1コマ1コマを、もう一瞬も忘れたくないのです。

触れればこの時の自分が何を考え、何を求め、何を感じていたのか。

わかるようにならないかな。

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